あの日から5年が経った。なんども書いてきたが、あの日わたしは福岡にいた。コトリとも揺れなかった福岡は、帰宅難民になることもなく、水道水の放射能汚染に怯えることもなく、計画停電で不便を強いられることもなかった。その年の夏、名古屋に戻ってきたものの、結局東日本大震災の直接的な痛みはまったく感じることなく「ふだん」の生活を続けてこられた。あれから5年、名古屋で生活している中では、震災のことが話題にのぼることは少なくなり、ともすれば、忘れてしまいそうになる。
5年めの3月11日は、出張先の東京で迎えた。ホテルで読んだ朝刊も、朝の情報ワイドでも、震災関連のニュース、記事、話題が多く採り上げられていた。5年って、単に時間の区切りにすぎないけれど、それを契機に様々な報道がなされるようになったのは、「ふだん」ほとんど思いを致さなくなってしまった現地以外の人間にとって、とても重要なことだと思う。
ただ、予想されたことだけど、民放の朝の情報ワイドでの採り上げ方は、5年でこんなに変わった!というものだった。それは、埼玉の小学生が、5年前の震災の爪痕を写した画像の場所に出かけるというもので、石巻の魚市場や陸前高田の高校などを見て回っていた。これだけを見たら「復興ってずいぶん進んでるじゃん」って感想をもって終わってしまうようなものだったのは残念だ。
先日、はじめて東北へ震災ボランティアに行ってきた。行った先は南相馬市小高区と、宮城県亘理郡山元町だった。小高区は、今も原発事故以来の避難指示が続いていて、日中はふつうに活動できるものの定住はできないのだが、間もなく避難指示が解除となって、わが家に帰ることができると言われている。依頼された仕事は、その帰宅に備えての自宅の片付けだった。
地震で倒壊してしまった建物の撤去は終わっているようなので、パッと見た目には、震災の被災地には見えないが、街のあちらこちらで除染作業が行われているし、その除染作業ででた土や草木などがいっぱいに詰め込まれた不気味な印象の黒い大きな袋(フレコンバックというらしい)が、そこここに積み上げられていた。そして何より、人々の営みのあたたかさがそこにないので、街全体がくすんでいくようにゆっくりと朽ちていっているような印象が強い。
作業に入ったお宅は、地震の揺れでも倒れなかった立派な日本家屋だったが、一歩部屋の中に足を踏み入れたら、タンスは倒れ、花瓶は割れ、雑誌は散乱し、足の踏み場がないというのはまさにこういうことという有様だった。倒れたタンスを元に戻し、部屋の中や物置から大量の荷物を持ちだし、大量の「トン袋」に詰め込んだが、このゴミは、放射能で汚染されているものということで、一般ごみのようには処分できないという。
わたしたちが小高区で活動を行ったちょうどその日、安倍総理が常磐線の小高駅を視察している。知事や市長のお出迎えを受け、地元の高校生と懇談し、2020年までに常磐線を全線開通させると宣言して15分ほどで次の視察地に向かったそうだ。首相が立ち去ったあとの駅に行ってみたのだが、自転車置き場に5年近く放置されていたたくさんの自転車が撤去され、駅前の観光案内看板が塗り替えられ、駅舎の中には真新しい券売機と時刻表が設置され、線路の敷石も真新しく、ホームの先の出発信号にも明かりが灯り、今にも電車が入ってきそうだった。
総理が乗った車列が通ったと思われる駅前の通りでは、和菓子屋さんなど何軒かがお店を開けていた。避難指示が解除されたわけではないのだから、この日の「パフォーマンス」のためにお店を開けることを要請されたのだろう。現に、国道へまわる交差点の先では、売り物のタンスが倒れたままの家具屋など、人の気配はまるでなかった。そして活動していたお宅は駅から1kmも離れていなかった。
翌日の作業に向けて移動した山元町の海岸沿いは、見渡すかぎりの広大な更地がひろがっていた1階部分がみごとに壊れた家屋やネジ曲がったガードレールが1,2箇所あっただけで、瓦礫の撤去が進んだ分「復興が進んでいる」と言えなくもないが、そばによれば相当に大きなパワーショベルのはずなのに、それが広大な更地にポツンポツンと置かれているさまは、こどものおもちゃのようにしか見えない。宮城以外の東北各県や北海道のダンプが行き交っているが、これとて、かさ上げが終わり、人々の営みが戻ってくるまでにはどれだけの年月と、どれだけの費用がかかるのか想像できない。
山元町あたりでは、かつての海沿いからかなり内陸に入ったところの「高架」の上を常磐線が走ることになる、このあたりはことし中にも開通の見通しだそうだ。当然、駅は移転することになる。そのあたらしくできることになる駅前の更地には、住宅展示場のモデルハウスのような「災害公営住宅」が何十棟も建っていた。バリアフリー化されていたのは、高齢の方のひとり暮らしが多いのだろうが、まわりに食料品や日用品を買い物する場所はない。果たして、これが暮らしよいのかどうかは判断がつかない。
津波に備えてかさあげするということを否定はしないが、そのことのために、復興までの時間がさらに伸び、公共事業頼みのゼネコンや土建屋さんにあらたな利権を生んでいることも事実だ。そして、先に書いた避難指示の解除は「1日も早く自宅に帰りたいみなさんの気持ちに応える」という大義名分が語られているが、避難民に毎月支払われている慰謝料(1人10万円らしい)を少しでも減らしたいという思惑も見え隠れする。
いずれにしても、表裏一体の話なので、何が正解かは簡単に語れない。ただ思うことは、今からでも遅くないから、復興へのプランを描き、推進していく権限をを、国から住民にいちばん近い町村やNPOへ委譲すべきではないだろうか。もちろん国がお金を出した上でだ。お役所仕事の常で、金を出す以上クチも出したいのだろうが、離れた場所の机上で描いた復興計画が、ほんとうに被災した人たちが望んでいるものだろうかという疑問は、ボランティアに行く前から思っていたことだけど、駆け足で見てきただけでも、それはすぐにも必要なことと思われた。
震災から5年、たしかに目に見える復興も数限りない。でも、未だ何も元どおりになっていないことだらけで、「復興を果たしたなんてとてもいえない!」と言っていいと思う。そして、5年めだからじゃなく、3月11日だからじゃなく、ずっとそのことを忘れずにいないといけない。そして、そのために「負の部分」の報道もずっとつづけてほしいし、ボランティアに出かけられた者は、見聞きしてきた「ほんとうのこと」を広く知らしめていかなくてはいけないとわたしは思う。